第一章 城北線の原型〜国鉄瀬戸線の歴史〜
城北線を語る上で、どのような経緯で城北線が誕生したかをまず知っておく必要があります。
本章では、城北線とその原型である国鉄瀬戸線などについて記載します。
1.貨物のバイパス路線として計画された国鉄瀬戸線
今では見る影もありませんが、1970年代までの鉄道貨物輸送は隆盛を極めていました。
道路網がまだ十分に整備されず、陸上貨物輸送の大半は鉄道が担い手だったのです。
ローカル線にも当たり前のように貨物列車が走り、都市近郊には膨大な本数の貨物列車を
仕分けるための広大な操車場が広がっていました。
このため、通勤列車も多い大都市近辺では線路容量が不足し、パンク寸前でした。
貨物列車と旅客列車を分離するため、東京では横須賀線の一部や武蔵野線などが、
名古屋では「瀬戸線」、「岡多線」、「南方貨物線」が着工されました。
上記の図では、オレンジ色が瀬戸線、緑色が岡多線、青色が南方貨物線を表しています。
まず、城北線の原型である瀬戸線は、操車場のあった稲沢駅を起点として名古屋へ寄らず東進、
途中中央本線と並走しつつ、陶磁器の名産地である瀬戸市に至る路線でした。
そして岡多線は岐阜県の多治見駅から愛知県の瀬戸市、そして当時も自動車産業のさかんだった
豊田市を経由し、岡崎駅に至る路線でした。両線は瀬戸駅で接続し、名古屋を大迂回する形で
貨物列車をスルーさせるバイパス線として機能する予定でした。
残る南方貨物線は、東京方面から当時建設中だった名古屋貨物ターミナル駅や、
三重県のコンビナート地帯へ向かうための路線として機能する予定でした。
これらの3路線の開通により、名古屋周辺の貨客分離がなされるはずでした。
2.鉄道貨物の凋落と瀬戸線などの工事凍結
しかし、当時の貨物列車は貨車の最高速度が低く、また操車場で一々仕分けされるために
荷物が到着するまでに大変な時間がかかるという致命的な欠点がありました。
また、当時の国鉄は、労働組合の熾烈なストライキにより列車の遅れや運休は常態化し
信頼性が地に堕ちてしまっていました。
一方で高速道路の相次ぐ開通や宅急便の登場でトラック輸送は目覚ましい飛躍を遂げ、
鉄道貨物輸送のシェアを完全に奪いました。
貨物列車の激減により瀬戸線、岡多線、南方貨物線は存在意義を失い、
また膨大な赤字を抱えた国鉄の財政事情から、全ての工事は凍結されたのです。
推定総延長が100qを超えるこれらの路線の中で生き残ったのは、
唯一先行開業していた岡多線の一部、岡崎駅〜新豊田駅のわずか20qのみでした。
3.城北線、愛知環状鉄道としての復活
国鉄末期の1986年、岡多線と瀬戸線の一部が第三セクターとして復活する事が決定しました。
建設が凍結された区間も再び着工され、1988年の1月31日に岡崎駅〜高蔵寺駅が
「愛知環状鉄道」として開通しました。
この愛知環状鉄道は沿線住民の日常生活の足として堅実な成長を続け、
特急列車の走らない第三セクター鉄道としては珍しい黒字経営を続けています。
2005年には愛・地球博へのアクセス路線として活躍し、設備面でも飛躍を遂げました。
そして同じころ、瀬戸線の残り区間も城北線として復活が決定されましたが、
こちらは他のどの路線とも毛色が異なる、特殊なものとなりました。
まず、瀬戸線の本来の流れである稲沢駅〜勝川駅のルートは放棄され
代わりに、途中の小田井駅から名古屋駅方面へと分岐する支線の工事が再開されました。
そして何より、JR路線としてでも第三セクター路線としてでもなく
JR東海の子会社である東海交通事業が経営する路線として営業を始めたのです。
その後現在に至るまで、大都市の非電化ローカル線というポジションを開通当時から保っています。
なお、瀬戸線、岡多線のうち、上記に出てこない区間は二度と日の目を見る事がありませんでした。
稲沢駅〜小田井駅、中央本線との並走区間、多治見駅〜瀬戸駅の用地は売却され
跡地には住宅が立ち並びました。
南方貨物線も同様で、東海道本線との並走区間が部分的に再利用された以外は
実質的に完成していたにも関わらず全て放棄され、建設費と同じくらいの費用をかけて解体中です。
あおなみ線は別の貨物線を旅客線に転用したもので、南方貨物線とは異なる存在です。
4.現在のすがた
以上、長々と説明してきましたが、最後に現在どうなっているかをまとめた図を掲載します。
オレンジ色が城北線、緑色が愛知環状鉄道線、水色が未開業に終わった区間です。
東海道本線や中央本線と重複している区間は複々線になる予定でしたが、
工事が凍結された結果、今でも当該区間は複線のままです。